長屋宏和 | HIROKAZU NAGAYA WEB SITE
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>> 第1章 レースを始めたキッカケはF1
>>第2章 自力でカートチームを探した
>>第3章 レーシングカートをはじめ、初レース。初表彰台
>>第4章 下山との出会い
>>第5章 96年地方カート選手権、97年全日本カート選手権、そしてワールドカップ3位
>>第6章 98年全日本カート選手権FSAクラス出場後、エルフスカラシップでフランス行き決まる
>>第7章 中国ズーハイサーキットでフォーミュラー初優勝
>>第8章 良い経験の出来た1年間
>>第9章 1年間生活して
>>第10章 夢のF3初走行。そしてフォーミュラードリームオーディションでは・・・
>>第11章 2000年フォーミュラードリーム気合の空回りの連続。しかし・・・
>>第12章 下山と再会
>>第13章 2001年フォーミュラードリーム2年目の壁
>>第14章 2002年戸田レーシングからF3参戦決定
>>第15章 初戦でのクラッシュが流れを変えた
>>第16章 レースへの姿勢が変わった
>>第17章 F1日本グランプリ前座レース。そして大クラッシュ
>>第18章 声が出たときの喜び
>>第19章 23歳誕生日
>>第20章 危かった・・・
>>第21章 6ヶ月以上居た病院から転院
>>第22章 初外出
>>第23章 気管切開のレティナが取れた
>>第24章 事故後、初めての外泊。そして筑波に
>>第25章 事故から丁度1年
>>第26章 F3最終戦もてぎ
>>第27章 アメリカ
>>第28章 アメリカと日本の違い
>>第29章 現実を見て
>>第30章 復帰するまでに何が必要か
>>第31章 良い出会い
>>第32章 事故後初走行
>>第33章 気付き
 
更新日2014年1月22日

レースを始めたきっかけから、今のすべてを書こうと思います。少しずつ書いていくつもりなので、宜しくお願いします。長文なので読む気にならないかもしれませんが、頑張ってみてください。

今回、このような企画を思い浮かんだのは「太田哲也さんの影響。」「今の自分のこと、回りの状況。」「どうしてレースを始めたのか。」など、レースを始めてから現在に至るまでのことを書いてみたく思いました。
第1章 レースを始めた切っ掛けはF1
レースを始めたきっかけは、僕が中学1年生の時、大親友「まさよし」のお母さんが、ある朝、突然僕の家にやって来て、「実は今週末のF-1を見に行くの。まさよしは今日から行くみたいよ。」と言ったのです。それを聞いて、僕もF-1が無性に見たくなり、翌日はまだ学校があるのに、土曜日は学校をさぼることにして、金曜の夜、まさよしと2人で新幹線に乗り、始めての鈴鹿サーキットへ向かったのです。あの時、もし、まさよしのお母さんが僕の家に来なかったならば、僕はレースを始めていなかったかもしれません。
その年のF-1はホンダ撤退の年で、日本人ドライバーでは片山右京さんが走っていました。当時、僕はアイルトン セナのファンでした。僕は、小学6年生の時からぜん息が始まり、そのF-1に行く時もぜん息がひどかった記憶があります。鈴鹿に着くと、その夜からは、まさよしのお母さんの車の中で、僕とまさよし、まさよしのお母さん、まさよしの弟と、4人で過ごしました。でも、F-1の観戦チケットは2枚しかなく、交互に見ることになりました。F-1を見て驚いたのが、あの音と、見たこともないスピードでした。僕が見た場所は、シケインだったので、シフトダウンの音など、いろんなことに感動しました。実は、僕が小学4年生の頃、母親に「誕生日プレゼントは何がいい?」と聞かれ、原宿に見に行ったところ、丁度、なぜかレーシングカートを売っていて、「これ欲しい!欲しい!」と母親にねだったら「身長と体重が足りないから無理よ」と言われ、諦めたことがありました。今考えてみると、レーシングカートに身長、体重の制限なんてありませんよね。まんまと母親にだまされたのです。
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第2章 自力でカートチームを探した
F-1を見た感動と、レーシングカートをやってみたかったことが結び付き、「今なら、前に言われた身長、体重もクリアーしている」。と思い、F-1観戦から帰るとすぐ、母親に「レーシングカートがやりたい」と言いました。
すると、母親は「やりたいことがあるなら自分で探しなさい」と言うので、「よしそれなら自分で探してやる」と、早速、本屋へ行き、レース関係の雑誌を探していたら、たまたまレーシングカートの本を見つけたので、即買い。そこに載っていた東京のカートチーム全てに手紙を送りました。そして返ってきたのが2通。その内、1つのチームが、家から電車で行くのにとても便利な場所にあったため、すぐに、そのチームとコンタクトを取りました。
そして、母親と一緒にカートショップに行き、レーシングカートを購入。母親も、もうわかっていたようでした。そのチーム名は、今はなき「DAY DREAM」。僕は、カートを手に入れたその日から毎週、大井松田カートランドにチームの皆さんと行き、練習していました。しかし、身体が貧弱だった僕は、なかなか上達せず、アクセルを全開にすれば肺が苦しいし、腕はパンパンに張ってしまう…で辛かったけれど、走るのが好きだったので続けられました。そして、カートを続けるうちに、肺も強くなり、ぜん息もいつの間にか治っていました。
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第3章 レーシングカートをはじめ、初レース。初表彰台
そして、大井松田カートランドで初めてレースに出場しました。結果はリタイヤ。2レース目は遠征で、モトレパークぺスカにレース前日突然に行くことになり、当日参加、しかも、走ったこともないサーキットでレースに出ました。
初の雨天レースで2位になることが出来、凄く嬉しかったし、始めてもらったトロフィーは特別でした。あれから、今までに頂いたトロフィーは、全て家などに飾ってあります。その後、何レースかに出た後、今度は榛名サーキットに遠征。またもや走ったことのないサーキットでポールトゥウィンを決めることが出来ました。この時初めて、1位になる喜びを知ったのです。1年と少し「DAY DREAM」にお世話になり、堀越学園入学とほぼ同時期に次のカートチーム「カブヤマレーシング」に移りました。このチームは家から近かったため、僕は、毎日チームに顔を出し、週末はほぼ毎週、新東京サーキットへ練習に行っていました。新東京サーキットのレースは、レベルが高く、なかなか良い結果が残せませんでした。
その後、チューニングクラスのFR-2クラスに乗り換え、練習を重ねてFR-2クラスのレースに初出場しました。新東京サーキットのチューニングクラスは、その頃、レベルが高く、全日本の選手や地方選手権に出ているような方ばかり、しかし、僕は、胸を借りるつもりで出場し、チューニングクラス初レースでポールポジションを取ることができたのです。とても嬉しかったのですが、レースの方は予想以上に緊張してしまい、スタートは良かったものの、4コーナーでクラッシュ、苦い体験をしてしまいました。精神面の弱さがおもいっきり出てしまったレースだったと思います。
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第4章 下山との出会い
翌年1月、その年に出る地方選手権の練習がてら、サシマカートランドで行われる賞金レースに出場しました。そのレースでの思い出は、なんといっても今は親友の「下山征人」に始めて出会った事です。その頃の下山征人は、カート界では有名で、雲の上の存在でした。下山のことは、カブヤマレーシングの息子が大ファンだったため、僕もステッカーなどをちょくちょくもらっていました。そんな下山と蕪山さんの息子と俺と3人がサシマのレースで撮った写真は一生の恥です。今でも、カブヤマレーシングに行けばその写真はあります。
機会があればホームページに載せますね。あの頃、僕は下山のファンだったし、下山は僕にとって憧れの存在でした。今では信頼しあえる良き友であり、ライバルになっています。
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第5章 96年地方カート選手権、97年全日本カート選手権、そしてワールドカップ3位
96年は地方カート選手権、FR-2クラスに出場し、結果は良くありませんでしたが、速さは認められ、翌97年は、全日本カート選手権ICAクラスに出場。その年、ビックレースであるワールドカップに出場することが出来、結果3位表彰台に上る事が出来ました。このワールドカップ入賞で、初めて自分に「自信」というものが付いたのだと思います。
この年、下山とジャパンカートグランプリで初めて同じレースに出たのですが、たぶん下山は覚えていないでしょう。このレースには松浦選手・片岡選手・そしてフランス同期の高崎くんも出ていたと思います。
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第6章 98年全日本カート選手権FSAクラス出場後、エルフスカラシップでフランス行き決まる
続く98年は、全日本カート選手権FSAクラスに出場。この年、ワールドカップICAクラスに出場するための選抜レースがあり、僕はそのレースで優勝しました。選抜レースには、ICAクラスとFAクラスの2クラスがあり、ICAクラスでは僕が、FAクラスでは高崎保浩が優勝しました。
「高崎保浩」とは、翌年フランスで1年間、同じ寮生活をし、同じフォーミュラールノーキャンパスに出た仲です。僕は、その年のワールドカップではタイムトライアル2位、予選1位。プレファイナルではエンジンがかからず、リタイヤとなってしまいました。そして、この年にエルフ・スカラシップを受け、高崎と僕が選ばれて、翌年1年間、フランスでフォーミュラールノーキャンパスに出場出来ることになったのです。
エルフの方に初めてもてぎに連れて行ってもらい、そこでサイドバイサイドに乗った時、勝負したのが宮城光さん。宮城さんとは、その時が初対面でした。
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第7章 中国ズーハイサーキットでフォーミュラー初優勝
フランスに行く前の冬、中国のズーハイサーキットにあるレーシングスクールに1週間ほどフォーミュラー初体験に行きました。乗ったのは翌年乗る、フォーミュラールノーキャンパスで、僕は普通車免許は持っていたものの、マニュアル車には乗ったことがなく、ヒールアンドトーを使ってするシフトダウンの方法が分からなかったのですが、このレーシングスクールでしっかり教わりました。ズーハイでは、最終日にレースがあり、そのレースで優勝。これがフォーミュラーカーレース初優勝でした。
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第8章 良い経験の出来た1年間
翌99年、フランスのル・マンにあるレーシングスクール「ラ・フィリエール」に入校。この年日本人生徒は僕と高崎だけ、僕も高崎も英語・フランス語がほとんどしゃべれず、最初は困りましたが、勉強して通常生活程度の英語は話せるようになりました。僕は、中学・高校で、英語の授業はいつも寝ていたので、本当に何もわからないままフランスへ行ったのですが、言葉が通じない中にいると自然と勉強もしたし、外国人も僕がしゃべれないのを解ってくれ、なんとか理解しようと努力してくれたため、覚えるのが早かったのかもしれません。その時一緒に生活していたのが、‘02年イギリスF-3・Bクラスチャンピオンになり’03年はイギリスF3に出場しているアダム キャロル。国際F3000に出ているフィリップ ギブラー。同じく国際F3000に出ているパトリック フリーザッカー。そして、フォーミュラーフォードに出ていたパトリック ロング。フランスF3Bクラスに出ていたアダム ジョーンズ。ウウェスリー バーバラ。ウウェスリー グロゴーなどなど。ラ・フィリエールを卒業したドライバーは皆、活躍しています。
あの頃、フランス人ドライバー以外はル・マン大学の寮で生活をしていました。日曜日以外、毎日トレーニングをしにラ・フィリエールに行き、日曜日は全員でレンタルカートに乗ったり、買い物したり、ラ・フィリエールに通う為の交通手段である原付バイクを洗車したりしていました。金曜の夜はドライバー全員で飲みに行っていました。日本では変ですが、フランスでは、これが普通の生活で、飲みながらF-1見たりビリヤードやったりで非常に楽しかったです。
レースの方は、知らないサーキットに行き、いきなり予選と言う感じで毎レース経験していました。なので、前日のうちにコースを歩いて1周し、コースレイアウトを覚えるのが重要でした。この頃からサーキットを見ただけで、このコースは好きか苦手かわかるようになりました。フランスでも日本のサーキットに似ているコースは得意でしたね…。そういった部分で、海外のドライバーと日本人ドライバーの差が出るのだと思います。
海外のサーキットは想像以上に路面が悪かったり、カートコースを走っているように感じるほど狭かったり…。それに比べると、日本のサーキットはとても走りやすくできています。だから外国人ドライバーが日本に来ると速い訳なのです。当然だと思います。この年、最終戦にルノーフェスティバルと言うルノーのビックイベントがあり、そのレースで3位表彰台に乗ることが出来たのがとても嬉しかったです。
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第9章 1年間生活して
1年間、フランスにレース留学出来た事が、僕の中でレースに対する考え方や取り組み方、日常生活など、全て良い方向に変えてくれました。僕の中で大きな変化があった1年です。それまで、海外にも行ったこともなく、言葉も満足にしゃべれなかった人間が、フランスの片田舎で1年間生活し、言葉や走り、すべてを勉強させてもらいました。僕には、まだまだ学び足りない部分があるはずですし、チャンスがあるなら、また海外でレースがしたいと思います。もし、この文章を読んでくれたやる気あるドライバーがいたら、レース留学、絶対おすすめします。
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第10章 夢のF3初走行。そしてフォーミュラードリームオーディションでは・・・・
2000年フランスから帰って、「スキルスピード」さんのF-3に乗れるチャンスを頂き、TIサーキット英田で前年度、伊藤大輔さんがマカオグランプリで3位になった車を乗らせて頂くことになりました。
F-3の印象は、凄いパワー、凄いスピード、そして、横Gの凄さ。その全てに圧倒されてしまいました。乗ってみて想像以上だったし、F3くらい乗りこなせるだろう…と、少しなめていた自分の気持ちがずたずたに崩されました。その後、フォーミュラードリームのオーディションがあり、受けさせていただきました。「自分をアピールしないと受からない。」と思っていたので、自分の100%以上の力で走りました。走りは問題なく、結果も合格だったのですが、その内容はかなり強い印象を与えたようです。
その内容とは…。フォーミュラードリームのオーディションではストレートにシケインを作り、そこを減速して通過するのが普通なのですが、僕はそこを誰よりも速く走ろうと決めていたのです。なぜなら、そこが皆から見える場所だったからです。そのシケインはパイロンで出来ていたので、僕はおもいっきりいったのですが、張り切りすぎて、毎周のようにパイロンを飛ばし、終いにはウィングにパイロンをかついでデグナー2つ目まで運んでしまったのです。夢中になって走っていた僕は、なんでこんな所にパイロンがあるのか分からず「邪魔だなー。」と本当に思っていました。まさか自分が持ってきたとは思いもよらず・・・。走行時間は2セッションあり、1セッションが終わってピットに戻ると「お前、帰りたいのか?」と言われてしまったため、2セッション目は慎重に走りました。今ではこの話、FDでは有名になり、笑い話として残っているようです。でも、オーディションで強い印象を与えたことでは、絶対1番だと思っています。
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第11章 2000年フォーミュラードリーム気合の空回りの連続。しかし・・・
本当はF3をやるつもりでいた2000年ですが、自分の間違えた道のせいで何もレースが出来なくなってしまう所を「フォーミュラードリーム・オーガニゼイション」に助けられ、この年もフォーミュラードリームに参戦することになりました。最初のFDレースは、本当に遅かった。自分のやりたいことは空回りするし、クラッシュはするし、本当に辛かったです。何をやってもだめだし、壁にぶつかりました。その壁を取り除いてくれたのは、F3000のチーム「ステラ」、現在のチーム名「フィールド」の福井さんと野呂さんでした。二人は、僕の走りの、悪い所ではなく良い所を見てくれていました。
コース1周のタイムは悪かったけれど、鈴鹿の2コーナーとスプーンの2個目は誰よりも速かったことを教えていただきました。自分の良い所に気付き、他のコーナーも少しずつ良くなり、その年の鈴鹿F1グランプリでは惜しくも4位でしたが、ゲストドライバーが1位と3位にいた事を考えると、最初に比べたら何十倍も良くなっていました。
最終戦は気合が入りすぎ、予選でコースアウト。、最後尾スタートから前にいた全ての車をシケインの2個目で押してスピンさせ、5位になりましたが、フォーミュラードリームでは俺しかいない「レース除外と失格」になってしまいました。
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第12章 下山と再会
丁度この頃、フォーミュラードリームに下山も参戦していて、再会。カート時代から下山とはとても気が合い、仲良くなりました。最初に会ったときは「なんだ!誰だあれは。絶対気が合わない。」と思っていたのですが、話してみたら気が合い、仲良くなってからは下山のお兄さんがやっているレンタルカートコース「クイック羽生」に毎週通い、1日ず〜っとカートに乗らさせて頂いたりしていました。
コーナーが多いレンタルカートのサーキットなのでので非常に面白く、下山と対決すると、お互い同じタイムだし、抜くのに頭使うしで練習になりました。このサーキットで、チューニングクラスに乗るのが僕の楽しみでした。たぶん俺のことを見ていた人がいたなら、カート馬鹿か頭がおかしいと思われていたでしょう。でも本当に楽しかったのです。
下山とは、今でも信頼し合えるドライバーとして付き合っています。2001年1月に「ライアン」のF3に乗るチャンスを頂き、鈴鹿のスポーツ走行で乗りました。その時、ライアン様・戸田レーシング様・フォーミュラードリーム・オーガニゼイション様にはご迷惑をおかけして、すみませんでした。
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第13章 2001年フォーミュラードリーム2年目の壁
この年はフォーミュラードリームに参戦。第1戦「もてぎ」でポールポジションからスタートしたのに勝てなかったのが、この1年間の「流れ」をつかみ損ねました。この時、レースには流れが重要さであることを知りました。
その後、表彰台には乗れたものの、勝つことの出来ない大きな壁がそびえ立っていました。無駄なクラッシュもしてしまい、自分の中で「2年目なのに勝てない…。」焦りが出ていました。そして「もてぎ」のレースで、ようやくポール トゥ ウィンで勝つことが出来たのです。FD初優勝はとても嬉しかったです。
夏には恒例のARTAのカート大会がもてぎ北ショートコースで行われ、無限の3ペダルカート、MFCクラスに出させて頂きました。同クラスには金石勝智選手、宮城光選手、柳田真考選手、阿部翼選手が出場し、そのレースでは柳田選手に負けましたが、2位になり賞金を稼げました。
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第14章 2002年戸田レーシングからF3参戦決定
12月には「無限×童夢」のオーディションに参加。選ばれませんでしたが、田中弘監督とブノア トレルイエ選手にはF3の走り方をいろいろ教えて頂きました。その次の週に「戸田レーシング」のF3に「TIサーキット」で乗せて頂き、 02年度、戸田レーシングから参戦が決定しました。
シートが決まるまで毎日眠れませんでした。決まった日は、電話で連絡があると前日に言われていたので、その日は緊張して一人で居られず、下山とファミレスで電話を待っていました。
そして、電話が鳴り、シートが決まった瞬間、下山と二人で喜びました。下山は「いいないいなー。」と言っていましたが、今は下山がイギリスのF-3に乗れるチャンスをつかめたので、俺の分も頑張ってもらいたいです。
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第15章 初戦でのクラッシュが流れを変えた
02年、念願の全日本F3選手権に「戸田レーシング」から参戦することになりました。同時に前年度、参戦していたフォーミュラードリームのテストドライバーとして、フォーミュラードリームの開発もやらせて頂きました。1戦目の筑波サーキットは、見たこともないし、当然、走ったこともないサーキットでした。
レース前の木曜日、初めてサーキットを見て、フランスでレースしていた頃を思い出し、1周2.045Kmのコースを歩きました。金曜日の初走行は誰よりも遅かったです。びゅんびゅん抜かれていましたが、自分は初めてのサーキット、周りの全員が筑波には慣れていたので、まったく気にせずマイペースでやるべきことをこなしていきました。午後には皆と同じように走れるようになり、最終セッションでは3番手のタイムを記録して金曜の練習走行を終わることができました。
翌日、土曜日は予選が2回と第1戦目がありました。朝、小雨が降り、路面が悪いため、セッティングに悩みました。土曜日は練習走行がなく、突然予選なので、路面状況もわからず、戸田さんとメカニックの前田さんと悩み、なんとかセッティングを決めました。午後に行われる1戦目の予選は、走り出してみると想像していたよりも路面状況は良く、セッティングはミスで、予選1回目は10番手で終了。その15分間後には、日曜日に行われる2戦目のグリットを決める予選が始まります。そして、その15分間でセッティングを直し、予選に挑みました。走り出して、リアータイヤのグリップが上がり、立ち上がりでリアータイヤが踏ん張ってくれていたため、タイムは出ると確信していました。この予選は、3番手。前日の練習走行では3番手タイムを記録していたため、3番手は当たり前だと思っていましたが、1回目の予選で10番手になってしまったのは、自分のセッティングミス。だから、とても悔しかったです。
全日本F3選手権 開幕戦「筑波」。第1レースは10番手からスタート。 車の調子も良かったのですが、筑波サーキットでのオーバーテイクは難しく、なんとか6位で完走。ポイントを取ることが出来ました。日曜日の第2戦は、3番手からのスタート。スタート自体は良かったのですが、ポールポジションの無限×童夢の2002年度F3チャンピオン・小暮選手がエンジンストール。それを避けていたら、5番手スタートのマチュー ザンガレリ選手に前に行かれてしまったものの、1位パオロ モンティーン選手、2位マチュー ザンガレリ選手、3位が僕と順位は変らず、前とも離れず、後ろとも離れないまま、レース後半に入った所で、バックストレート手前のコーナー立ち上がりで、2速から3速に上げるときに僕はシフトミスしてしまい、一瞬、自分の精神面が乱れ、そのまま最終コーナーに入った所でリアータイヤのグリップがなくなって、堪えたもののスピン。そのままメインストレートのコンクリートウォールにヒットし、レースを終えてしまいました。
このレースが、レースをはじめて10年間の中で一番悔しいレースです。あの時、そのまま何も無く無難に走っていれば、絶対に抜かれることはなかったでしょう。戸田レーシングは2001年、1年間表彰台がなかったので、どおしても表彰台をプレゼントしたかったのです。でも僕が、このレースでクラッシュしたことで、この年も「流れ」をつかみ損ねてしまい、その後のレースも、良くもなく悪くもない、パッとしないレースを続けてしまいました。
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第16章 レースへの姿勢が変わった
僕の中で「もっとレースに集中しないと駄目だ。」という思いが募り、岡山にある戸田レーシングの近くで一人暮らしを始めることにしました。毎朝戸田レーシングのスタッフのみなさんとラジオ体操をやり、1時間ほど戸田さんとお話をして、10時半にはトレーニングジムに行くという日々が続きました。あの時は、毎日がかなり充実していたし、レースにも集中出来ていました。また、テストもたくさんさせて頂き、レースの方も徐々に良くなって行きました。
戸田レーシングの地元、「TIサーキット英田」では、結果は2レースとも5位だったのですが、予選が悪かっただけでレースラップなどは問題なく、課題は予選になっていました。
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第17章 F1日本グランプリ前座レース。そして大クラッシュ
2002年秋。僕からフォーミュラードリームのF-1前座戦に出たいと、「フォーミュラードリーム・オーガニゼイション」に頼んでいて、F-1の前座戦出られることになりました。2002年はF-3で結果を残していないし、このフォーミュラードリームで良い結果を残し、翌年に備えたいと思っていました。フォーミュラードリームにはテストで乗っていて自信があったからです。FDの練習走行は走り出してみると2速と3速が逆に組まれていて、走行出来ませんでした。ブレーキのパットの焼き入れだけして、その日は走行を中断しました。土曜日のことは、実のところ記憶はありません。
フォーミュラードリームの予選は5番手。前日の走行でセットを決められればもう少し前にいたのは確実でしょう。実は、サーキットに入る前、僕は練習走行で2種類のセッティングを試すつもりでした。それが、予選でレース用のセッティングを出すような状況になってしまったため、セッティングを全て試すことが出来ず、不本意ながら、5番手になってしまったのでしょう。この状況は記憶にないのですが、きっと、僕ならそうしていたに違いありません。
そして、10月13日、決勝。2周目のスプーンコーナーで、僕は前を走る細川選手にブロックされ、自分のラインを走っていたところ、細川選手が寄ってきて、行き場を失い、、細川選手のリアタイヤと僕のフロントタイヤが接触。僕は宙を舞い、タイヤバリアを乗り越えてフェンスの最上段に当たり、着地したようです。
あのビデオを見て「本当に生きていて良かった。」と思うほど自分で自分ではないと思うほど、凄いクラッシュでした。僕は、意識のないままヘリコプターで鈴鹿中央病院に運ばれ、それから2週間くらい、記憶がありませんでした。僕の記憶にあるのは、戸田さんと戸田レーシングのスタッフの方がお見舞いに来ていただいた時からでした。その前に下山もお見舞いに来てくれていたのですが、俺は下山が2度目のお見舞いに来てくれた時が初めてだと思い「お前が来てくれると思わなかった。」と言いました。そうしたら下山に「俺は2回目だ。あほ。」と言われ、悪いことを言ってしまいました。この時の状態は、体はまったく動かないし、クラッシュのショックでぜん息が再発。自分で息をするのは困難で、気管切開していたため、声は出ませんでした。手足は痺れ、触られるだけで嫌でした。
鈴鹿中央病院のICUには東京厚生年金病院に転院するまで居ました。しゃべりたくても声がでない。言いたいことを伝えることが出来ず、一番もどかしかったです。首を固定する為に、ハローベストと言う器具を、頭に穴を開けてボルトで固定していました。鈴鹿総合病院ではリハビリと言っても2週間以上寝たきりだったので、筋肉はすべて落ち、関節も固まってしまっていたのでほぐす程度。寝たきりのため、足に血が行っていなかったので、機械を使って体を固定し、自動的に身体を立たせて、血の巡りを良くしていましたが、寝たきりの時間が長かったことで貧血がひどかったです。
この頃、まさよしや下山が僕のこのホームページの掲示板をプリントアウトして持ってきてくれるようになったため、それを読み、「みんな、こんなに僕のことを応援してくれているのか。…頑張って復帰してやる。」と思い、これで本当に勇気付けて頂きました。 11月27日、鈴鹿中央病院から東京都にある東京厚生年金病院に転院しました。転院する時、救急車で移動したのですが、東名高速が通行止めになっていて鈴鹿から東京まで10時間以上かかりました。
僕がしゃべれたなら絶対「中央高速で行こう。」といったはずだったのに・・・。この10時間が辛くて辛くて…。熱は出るし大変だった記憶があります。鈴鹿中央病院ではずっとICUに居たのですが、東京厚生年金病院に移ったら、リハビリ科でリハビリを中心にやるつもりでした。しかし、まだこの時動くのが、左手首の屈曲のみだったし、ハローベストもまだ付いていたので、頭を動かすことが出来ず、ベットの上で筋肉と関節の硬直をほぐす程度しか出来ませんでした。
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第18章 声が出たときの喜び
転院して2週間くらいした頃、レティナ(気管切開チューブ)が声を出せる物に変えられ、しゃべれるようになりました。
レティナを変えて声が出たときの喜びは何ともいえないくらい嬉しかった。しゃべれることがこんなに嬉しいとは今まで思いませんでした。面会に来た家族も驚いていました。ただ頚椎損傷していることで横隔膜の神経も使えず、肺活量が普通の人の数分の1くらいしかなかったので、しゃべるのも辛かったし、痰が自分で出せなかったので気管切開チューブをつけていたのです。
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第19章 23歳誕生日
12月31日は僕の23歳の誕生日でした。このような形で誕生日を迎えるとは思いもしていませんでしたが、今までの誕生日の中で一番豪華だったし、たくさんの方々から僕の為にケーキやプレゼントなどを頂き、僕の23年間の中で一番盛大でした。こんな僕の為に大勢の方が訪れてくれたことが非常に嬉しかったです。そうして2003年を迎えるのでした。
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第20章 危かった・・・
2003年の1月。頚椎を損傷していたことで事故後の手術で首には鉄板が入れられ、骨と骨をつないであったものも無事固定されたため、ようやくハローベストが取れました。今でも鉄板は入っていますが、違和感もなにもありません。ハローベストが取れてから車椅子にも乗れるようになりましたが、貧血ですぐ寝かされていました。少しずつなれ、電動車椅子に乗った時は楽しかったです。やっぱ駆動する物が付いていると気分も違うし、もう一台用意してレースがしてみたかったけれど…無理でした。電動車椅子はリハビリにならないので、すぐに乗せてもらえなくなりました。
その後は、少しずつですがリハビリを進めていきました。まだ肺活量が少なく、痰も出ていたのですが、病院の先生に進められ、レティナを取って気管切開をふさぎました。しかし、その夜10時。ちょうど「僕の生きる道」をテレビで見ている時に、痰が自分で出せず発作になり、息が出来なくなってしまいました。その時のナースコールは、息を吹いて鳴らすタイプだったので、鳴らせずに苦しんでいたら、自分の病室の前のベッドの人がそれに気付いてくれ、看護婦さんを探しに行ってくれました。 そのため、2時間後にまた気管切開を受け、息が出来るようになって、無事なんとかなりましたが、あの時、もし、看護婦さんを呼んでくれていなかったら、たぶん僕は窒息死していたでしょう。あの人に助けられ、本当に感謝しています。その後、手も少しずつ動くようになり、やっとパソコンを使えるようになりました。パソコンが出来るようになり、それまで病院生活だけで外のことがまったく分からなかったものが、ニュースなどを見て、世間が今どうなっているのかや、レースの結果、自分のホームページを見ることが出来、僕のことを応援してくださった皆さんに直接、返事が出来るようになって嬉しかったし、励まされました。それまで応援してくれていたドライバーがどうしているかや、F-3やFDなどのレース結果。そして戸田レーシングの状況が気になりました。
僕は事故から寝たきりだったので、お尻に床擦れが出来てしまっていたため、車椅子に長時間乗ってのリハビリが難しく、リハビリが進みませんでした。しかし、時間が経つにつれて床擦れが小さくなり、手術して無事、治まりました。手術前の時点で直径3センチ×2センチあったので、床擦れが出来た頃はどれだけ大きかったのか…。でも無事、手術は成功し、その後のリハビリも順調に進み、車椅子を自力でこげるようになりました。でも、この頃は2、3メートルこいだら休憩しないと体力的に辛く、復活を目指して、毎日、努力しました。
車椅子をこぐ距離も少しづつ長くなり、病棟1周から始めて、転院する頃には10周以上続けてこげるようになっていました。でも、力はついたものの、持久力は、自分で意識出来るほど変わりませんでした。
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第21章 6ヶ月以上居た病院から転院
6月24日、東京厚生年金病院から今の病院に転院しました。この病院はリハビリ専門病院で、厚生年金病院でも「あっちの病院の方が辛いぞ」と言われていました。転院して心配だったのがナースコールと食事でした。
ナースコールの方は問題ありませんでした。一方、食事は、東京厚生年金病院では味がなくて一度も食べたことが無く、いつも冷凍食品やコンビニ弁当、吉野家の牛丼などを食べていて、病院食は食べていませんでした。僕は、内臓は大丈夫なので食事制限はないのに、僕の居た病棟では脳梗塞などで食事制限を受けている人ばかりだったため、僕もなぜか制限食。これは味気が無く、食べられませんでした。その点、今の病院食は普通で、最初に食べたときは美味いと思い、これからの病院生活を楽しめるような気がしました。あと、この病院は若い人が多いことも楽しいです。同じ頚椎損傷の患者さんがたくさん居て、僕と同じレベルの人が僕よりもたくさん動けるので勇気付けられています。 この病院に来てすぐリハビリが始まりました。
僕がいる病室からリハビリをする所まで遠く、最初はそれだけで疲れていました。日にちが経つにつれ次第に慣れ、同時に体力も付いてきました。 それからしばらくして、外出に思いが至りました。それまでは当然のように外出は出来ないと思っていたので、考えてもみませんでしたが、美容院に行きたいと思い、看護婦さんに聞いたところ、「届けを出せば大丈夫じゃないかな〜」と言われたので届けを出し、その週末、近くの駅まで買い物に行きました。
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第22章 初外出
初外出は、怪我を負ってから初の下界だったので、緊張しました。病院から駅までは、クルマ椅子で15分くらいです。この街は障害者や車椅子には良く出来ているのですが、最初に外出した時は横断歩道で車道と歩道の段差が辛かったです。今までそのようなことは考えたこともなく、今まで何とも思っていなかったことが車椅子では出来ない…というのが初めて分かりました。買い物もし、外出先にあるハンバーグ屋で食事しました。僕の好物のハンバーグだったので美味しかったし、幸せでした。
リハビリにスポーツが追加され、より辛くなりました。スポーツでは車椅子を速くこいだり、バスケットをしたりと体力面の向上を目的とし、月、水、金曜日の午前中に1時間半から2時間やります。内容は車椅子の正確な操作、タイヤ引き、バトミントン、バスケットなど、学校で言う体育の授業のようなもので、楽しいですが辛いです。このスポーツが始まってから僕の体力は1ヶ月で自分で分かるほどアップしました。スポーツをする体育館まではそれまでリハビリをしていた場所の倍くらいあり、辛く、最初は行くだけで疲れていました。この病院に来た頃は、リハビリの所まで辛かったのが、その頃には気にならなくなっていました。
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第23章 気管切開のレティナが取れた
痰が減ってきたので思い切って耳鼻科で「レティナ」を取ってもらいました。前回、呼吸困難で危ない思いをしているので、僕の中で一番の心配所でした。取った切っ掛けもまた母でした。
前日に母が面会に来ていて「レティナ」について「まだそんな物付けてるの?あんたが自分で息をしていなかった時に、酸素の管を取った時はいっきにいったのよ。そのあと酸素のグラフを見て2回失敗したけど、3回目には自分で呼吸してくれて取れたのよ。気合でぬいちゃえば〜。」と言われ、僕はそれを聞いた瞬間、「そこまで言うなら取ってやる。みとけあほ!」という気持ちで次の日、取りました。取ったのは良かったのですが前回のことがあったので実は心配でした。でも、次の日もその次の日も呼吸困難にならず、無事に過ごせました。
それまでは、お風呂に入っても首まで浸かれなかったのが、首まで洗えて気持ちがよかったです。
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第24章 事故後、初めての外泊。そして筑波に
レースで事故をして、入院してからずっとサーキットに行きたいと思っていました。戸田レーシングの皆さん、僕を応援してくれている皆さん、そしてドライバー仲間みんなに心配をかけてしまいました。だから、僕の元気になった姿を見せたくて、サーキットに顔を出させて頂きました。その日は台風が来ていたため、凄い風でレースは中止になってしまいましたが、たくさんの方々にお会い出来、充実した1日でした。決勝は中止でしたが、予選が見られたことと、F3の音を聞けたのが幸せでした。「僕が戻るのはここしかない。必ず復帰してみせる!」と言う意思が更に強くなりました。
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第25章 事故から丁度1年
事故をしてから、早いものでもう1年が経ちました。この1年、車に乗れないということと共に本当に僕がレースを好きであることを実感しました。レースを始めてからあの事故をするまで、クルマに乗れなかったことは全くなく、乗れる事が当たり前でした。しかし、こうなった今、運転は勿論、身体を動かすことすら出来なかったので、だんだん、「乗りたい。また走りたい。」という気持ちが高まってきました。
正直、今までこれ程、その気持ちが大きく膨らんだことはありません。これまで、レースをしていることが当たり前だったからだと思います。このように自分のことを書いてみようと思ったこともありませんでした。ここまで僕が前向きなのは、母親譲りかもしれません。でも前向きじゃなかったらどうなっていたのだろう…。考えただけで怖いです。1年ぶりの鈴鹿は不思議な感じでした。今まで鈴鹿にはレースをしに来ていたので、観戦のみなのは、初めて見たF1以来でした。サーキットに着き、ドライバーやメカニックさん達が迎えてくれて嬉しかったです。
この1年、会えなかった方々に元気になったことを報告できました。今のままで終わりたくないので「絶対復帰してみせる。」という気持ちでレースを見ました。FDを見るのは事故以来なので「見られて良かった。」「無事レースが終わりますように。」と思いながら見ていました。1周目、集団で目の前を通過した時の音で「サーキットに戻れて良かった。」と思い、涙が出そうでした。F1はいつ見ても驚かされます。F1は別物ですね。音と迫力に圧倒されます。
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第26章 F3最終戦もてぎ
丁度1年前のこのレースに、僕は病院のICUに居たため、2002年F3最終戦には参戦できませんでした。病院で寝ている時にビデオが届き、F3ドライバー全員とF3関係者からのビデオレターとヘルメットまで届いて、とても勇気付けられました。もてぎでは、筑波の時、会えなかったドライバーや関係者の方々にお会いできて、良かったです。戸田レーシングの戸田さんや前田さんとは筑波の時には時間がなく、あまり話せなかったので、やっとゆっくり話すことが出来、良かったです。
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第27章 アメリカ
12月1日、アメリカのシアトルへ治療のため向かいました。実際、アメリカへ行きたいという気持ちはありましたが、本当に行けるとは思っていませんでした。これも全て母親のおかげだと思っています。この場を借りて「本当にありがとうございました。」直接このことを言うと照れくさいです。
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第28章 アメリカと日本の違い
実際、日本とアメリカで、リハビリの差は感じられません。ただ、僕が日本の時に居た病院は、アメリカに来て聞いた話によるとすばらしい病院だったということです。この病院を紹介してくれたのはなんと下山征人なのです。本当に感謝しています。さすがにこんなことは直接、言いたくもありませんが、ここを読んでくれていたら見るでしょう。アメリカと日本の違うところは先生方の考え方の違いでしょう。
アメリカの場合、まだ手術が完璧には成功していませんが、この先、その手術が成功し、動くようになることを前提にリハビリも全て行われています。たとえば立つということに関してですね。日本とアメリカの差はここが大きく違う!その点をとても強く感じました。
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第29章 現実を見て
あまりこのことは書きたくはなかったのですが、アメリカに来て、実感し、自分の中でとどめて置くより、皆さんに分かってもらいたく勇気を出して書きます。頚椎の骨の中には神経があり、首の骨を損傷したことで、神経がそこで切れ、首から下に麻痺があります。頚椎損傷でも完全に神経が切れている人を完全。そうでない人を不全と言います。僕は完全です。頚椎は8本あるのですが、損傷した場所により、レベルが違います。僕は下から2番目のC6というレベルです。C6と言うと、指が使えない。胸から下も神経の麻痺があり、当然、歩くことも出来ません。腕も外側の神経が働いていない為、当然筋肉も使えません。たとえて言うと、腕を曲げて、伸ばす筋肉がそこでしょうか。
アメリカに来て、いろいろな情報を頂きました。当然、手術のことです。今、指が動かないと言う問題がありますが、手には2つのけんがあり、その1つを取り、親指に移植するという手術です。これは手が使えないという不自由なことを親指だけでも使えるようにする方法です。親指だけでも使えれば,物もつかめる様になるし、だいぶカバーできるでしょう。しかし、僕はしません。理由はその手術をしたことで、完全に治った時に移植するのに取った場所がなくなり、動かなくなると言う問題があるからです。
ここからが本格的な手術です。1つ目は鼻の神経細胞を取り、頚椎に注入し、再生する方法です。鼻の神経は再生機能があり、取っても復活するそうです。これは中国、オーストラリア、ポルトガル、スペインなどで行われています。現在、この手術は実験段階ですが、成功例があります。でも、成功例がありますが、失敗もあるようで,死亡の可能性が無いとは言えないようです。2つ目は日本でも実験の段階ですが、2月に人間での手術が始まった神経再生手術です。ねずみでの実験では成功したようです。成功例、失敗例はこれからわかるでしょう。アメリカではこのような手術はしないそうです。理由は人を実験として行わないということと、確実性がないからだそうです。出来ることなら手術はしたい。でも、無駄に自分の体にメスは入れたくありません。確実に治る事や、信頼性があることならやりたいです。でも『生』と『死』を賭けてまでやる勇気は僕にはありません。あのクラッシュで死んでもおかしくない状況から命だけでも残ったのですから、この命を無駄にはしたくはありません。お世話になった皆さんに悲しい顔はさせたくありません。早くレースに復帰してみんなを驚かせたい気持ちは強いです。まだ、時間はかかるかもしれませんが、後ずさりはせず、前向きに戦っていこうと思います。皆さんには本当に勇気付けていただいています。
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第30章 復帰するまでに何が必要か
今、僕自身に出来ること。それは、もしレースの出来る状況になった時のために、体を調えておくことと、ライセンスを保持しておくことです。JAFライセンスは話によると障害者には交付されないと聞きました。ライセンス自体の更新はしていますが、レースになった時に問題が出てからでは遅過ぎると思います。そんなの悔しいし、何が問題となるのか、明確にしておきたいので、調べようと思います。今までもライセンスの件は知っていましたが、その事実を知るのが怖かったのです。でも、今は違います。今はレースが出来る状態ではないけれど、出来る環境になった時、スムーズに事を運びたいです。2004年の7月10日に、今居るリハビリテーションセンターを出て、自宅で生活を始めます。今も、週末は家に帰って生活し、慣れていっていますが、実際に始まるとどうなのでしょう?楽しみだけれど不安もあります。例えば猫のことかな?猫の毛で喘息が出る可能性があるからです。実際に始まってみないとわかりませんが頑張ります。
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第31章 良い出会い
ツインリンクもてぎ行われていたレーシングカートの耐久レース「K-TAI」に大串信さんの応援でお邪魔した時、たまたま同じピットだったのが北海道のレーシングカートショップ「O&K」さんでした。「O&K」さんはフリーランスフォトグラファーの澤田賢治さん率いるチームで、車椅子使用の方がチームを組んでいたので、このとき初めてハンドカートを見ました。いろいろお話を聞いていたら、僕と同じ症状をもつ方がレーシングカートに乗っていると聞き、無性に乗りたくなりました。北海道は、9月、10月が一番過ごしやすい季節と聞き、行こうと決意しました。乗る為にはもっと筋力アップが必要ということでしたので、それからは辛かったけれど、リハビリを頑張れました。
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第32章 事故後初走行
北海道に向かう前に写真で僕仕様のハンドカートを見たのですが、「ハンドルを切れずにピットアウトして真っ直ぐ行く」とか「ハンドルを切ってアクセルオンオフが出来るのか」など正直不安だらけでした。悩んでいてもどうにもならないので、乗ってみて考えることにし、飛行機で1時間半、千歳空港に向かいました。到着してすぐにカートショップ「O&K」さへ行き、シート合わせをして、ハンドルを回すことは可能と分かりました。問題はアクセルとブレーキだけでした。
次の日の朝、サーキット向かい、調節してすぐに走行でした。僕があんなに緊張したのは初めてなくらいガッチガチでした。カートに乗り込みエンジン始動。コースインは無事出来ましたが、問題のアクセルとブレーキがハンドルを切ると出来ないことに気付き、ピットインして調節しました。今度は大丈夫な感触を得てコースイン。そうしたら、なんと今度は、ハンドルを切るとアクセルが全開に・・・。芝生を大暴走し、やっと止まれました。危うくまた病院送りになるところでした。何度も何度も修正し、なんとか乗れるようになっていって、走行1日目は無事終わりました。
走行2日目はアクセルとブレーキを逆に付けてもらうようにお願いしました。何故かと言えば、僕の右手と左手は障害レベルが違い、右の方が力が弱いため、右でアクセル、左でブレーキにしようと、寝る前に思いついたのです。これを変えた事で、安心感、安定感が出て、タイムアップすることが出来ました。しかし、問題が一つだけ出来ました。それは周回を重ねるうちに、ハンドルに固定してある手が抜けてきてしまうことです。それが解決すれば、健常の頃の走りのイメージに、凄く近づけるように思いました。
走行しての感想は「1年10ヶ月溜まっていたものが取れた」気分です。自分の中で納得できる走りは出来なかったけれど、どんどん煮詰めていけば、可能性はあると思います。車椅子でも坂道に行くと自力では難しい。車のゲームもアクセル・ブレーキを誰かにやってもらわなければいけない。自動車の運転も街中だとゆっくり走らないといけない。そういったことから、レーシングカートは、初めて自分の意思どうりに操れるたため、凄く嬉しかったです。レーシングカートショップ「O&K」様には本当に御世話になりました。
これからもレース復帰に向け頑張りますので応援よろしくお願いします。
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第33章 気付き
北海道で走行した時、O&Kの皆さんから、「12月のレースみんなで出よう」と後押しして頂き、こっそりレースに出て、応援して頂いている皆さんをビックリさせようと思っていました。
2004年10月におこなわれたレースにお邪魔した時、メールのやり取りだけだった藤井誠暢君と初めて会い話しました。藤井君は気さくで話し易くつい口が滑り、12月にレースに出ることを話してしまいました。「長屋さん、それは大々的にやらないともったいないですよ!長屋さんの復活レースなんですから!」と熱く語られましたが、僕は「そうなのかな?」と半信半疑でした。
東京へ帰ってすぐに藤井君の呼びかけで、玉虫清孝君、待田克彦君と、僕のレース応援団の人数が増えていきました。どのような方法が一番アピール出来るかをみんなで話し合いました。レースまで時間が無く、みんなで企画書を作成したり、パーティー会場を探したりする中で、楽しい時間を共に出来、この期間はほぼ毎日集まっていました。僕の中では車椅子ユーザーでもうレースが出来なくなり、皆さんに見放されてるのではないかと感じていました。なので、こっそりレースに出ることで驚かせたいと思っていました。事実はその逆で、関係者の皆さん、僕がレースに出ることを心配してくださっていました。僕は「レースに出られないことで見放されていく」と思っていたので、レースに出る以上、全員の同意なしでは出たくないと思いました。
フォーミュラドリームの阿部正和さんは、最後の最後まで僕がレースには賛成してくれませんでした。2012年10月13日の僕のクラッシュの時、真っ先に駆けつけてくださったのは阿部さんでした。「せっかく助かった命を、また危ない目に合わせたくはない」とおっしゃって頂き、僕のことをここまで思って頂けていたのかと、心で感じ取りました。
この身体でレースに出る以上、無理をして皆さんの心配をあおるようなことをしてはいけないのだと気付かせてくださいました。レースは勝負。事故前は、勝負には絶対に負けたくないし譲らないと決めていました。車椅子の生活になってこの身体でレースに出場することで、安全面にも気を配り、自分の身体と向き合う切っ掛けを頂けたのかもしれません。
「いつか治る」入院中は誰に何を言われようとそう思っていました。しかし、思いと現実の両方を考え、自分に置かれた状況を把握し、自分に合った方法を選ぶことを学ぶことが出来ました。
レース前日に開催したパーティーは、多くの関係者、取材陣の皆様にお越し頂き、賛成してくれていなかった阿部さんも参加して頂くことが出来ました。事故後初レースは不安も恐怖心もありました。でも、出場するからには完走したいと決めました。
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長々下手くそな文章を読んで頂き、ありがとうございました。
つづく。

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